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坂本龍馬暗殺の犯
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「チャーリー、龍馬暗殺の新犯人を推理する」の巻


冒頭の動画は、もうかれこれ20年も前にテレビで放送された、武田鉄也主演の「青春グラフィティー坂本龍馬」ですが・・・・・

「何でソムリエのチャーリーが龍馬暗殺なの?」などといった、ごく当然の疑問をお持ちの方も多い・・・そんな方ばっかりで、そんな方々の佃煮が出来るワ!・・・と思いますが、そういった雑音には一切かまわず・・・まるで「アンタッチャブルの山崎(判らない人は「誰だったっけ?」と深く考えなくてもイイですよ)みたいに強引に話を始めてしまいます。

アンタッチャブル・山崎の・・・身勝手な「ハイリ方」が大好き!


私、チャーリーの曽祖父は名前を須賀鎌五郎といい、土佐出身の板垣退助を助け?自由民権運動に奔走した人でありました。
「奔走する」などという動詞を使うと、何やらカッコ良さげに聞こえますが、実態は板垣さんの取り巻きの一人だったようです。


土佐藩士で、幕末期は龍馬の同志、自由民権運動の主役でもあった
板垣退助。


チャーリーの子供時代、須賀家の土蔵には、鎌五郎・爺さんが全国の民権家と交わした手紙が随分沢山あったようですがその殆どは私と兄貴(現在は名古屋・八事でシェ・コーベを経営)が、焚き火をして燃やしてしまいました。
今、我が家に残ったのは、板垣さんからのモノが一通だけ。


しかも、選りに選ってその最後の一通は”須鎌五郎君”と書くべき大切な名前を間違えて、須鎌五郎と書き、あわてて?訂正したモノで、ウチの鎌五郎・爺さんあまり華々しい活躍をしていたとは思えません。
しかし・・・まあ・・・とにかく、我が家には・・・たった一通ではありますが、「幕末の志士・板垣退助」からの直筆の手紙が残っている訳でしありまして・・・


チャーリーの曽祖父須賀鎌五郎と妻おくに

一体何が言いたいのかと申しますと、何はともあれ「我が家のご先祖」と、「板垣さん」を通じて、「坂本龍馬とチャーリーは、全くの無関係ではナイ!」と言っておきたいのであります。
「アンタって、昔から屁みたいな理屈を捏ねる人だったワ!・・バッカみたい!」と、我が家の「良妻ケ(チ)ンボ」?は言いますが、所詮、女に「ロマン」なんてものは解りゃしません!かつて英国首相のチャーチルの嫁も、「ウチのは、只のノンベーです」と言ったくらいですから・・・・・・・・話を本題に戻します。


京都・寺田屋を訪ね、龍馬に成りきるチャーリー!

ソレやコレやで、私は坂本龍馬先生の大ファンで、随分前から「坂本龍馬ファンクラブ」なるものを組織し、その会長を自認しておりました。
その組織?は後に「坂本龍馬を五万円札の肖像にする会」となり、当時の高知県知事・橋本大二郎さんと協力して、10万人の署名を集め大蔵大臣に陳情に行った話は・・・・また別の機会にするとして・・・



それにしても、思い入れというものは恐ろしいもの。
ある晩、例によって「龍馬バカ」を集めて、これも例によって大量の酒を飲んでおりましたところ、急に頭が冴えてきて・・・。
今まで「ミステリー」とされていた「龍馬暗殺の謎」が突然解けてしまったのであります。

先ず、龍馬暗殺を考える上での共通の土台として事件の”おさらい”から始めることにしましょう。
坂本龍馬が京都・川原町の隠れ家で襲われたのは、1867年(慶応3年)11月15日の夜のこと。
それまで材木商「酢屋」を京都での活動の拠点としていた龍馬は、何を思ったか、事件の直前、醤油屋「近江屋」の土蔵にその居を移します。
この土蔵の裏手は、「誓願寺」というお寺となっていて、万が一の襲撃に備え、縄梯子が用意されておりました。
これまでは、自身の危険に対してひどく無頓着だった龍馬にしてはこの時期だけは異例に用心深いようにも思えます。
事件の前日、龍馬は福井藩への急ぎ旅の疲れが出たのか、風邪を引き母屋の二階・奥の部屋に移っておりました。


慶応3(1867)年10月14日、徳川第15代将軍・慶喜は政権の返上
を朝廷に申し出、翌15日、朝廷がこれを受理した。
事件の丁度一月前。


15日の夕方になって陸援隊の中岡慎太郎が訪ねて来ます。
中岡は龍馬とは同郷の親友であり、「薩長同盟」を実現させた「土佐勤王党」結成以来の同志であります。

中岡が龍馬を訪ねたのは、土佐勤王党の一人、宮川助五郎が大政奉還の結果、放免となり、「陸援隊で引き取るようにと藩(土佐)が申し入れてきたが、どうしようか?」というものでありました。
二階に上がった二人は、宮川のことよりも、「大政奉還」を境に大きく食い違ってしまった二人の立場について人生最後の議論を戦わせたハズです。
龍馬は「今、日本が二つに割れて殺しあっている時ではないキ。そんなことをしちょれば列強の餌食になるぜよ!」と言い。
中岡は「龍馬さ、今の日本はもう屋根の挿げ替えくらいではどうにもならんゼヨ!」ふたりの議論はこの夜も平行線のまま・・・。
そんな頃、やはり土佐藩士・岡本健三郎が訪ねてきます。


岡本健三郎(右)と一緒に写っているのは、佐々木高行(三四郎)。
彼は、後に函館・五稜郭の戦の後、明治政府高官となり、現在、巷で暗殺者の一人とされる見廻組「今井信郎」を捕らえ、犯行の自供を得たが、不思議なことに、佐々木の刑は1年半の懲役のみ。
そしてその犯人・佐々木は以来何故か「西郷」を慕い、明治政府に仕えるのです。
西南の役では佐々木自身は政府の警察幹部でありながら、西郷軍に加勢をしようと西へ走るが、中国路で西郷自決の報を受け空しく帰京したと伝えられている。


龍馬と中岡は「シャモ鍋で食いながら一杯やろう」ということになります。岡本は、シャモの肉を買いに行くことになった峰吉という少年と一緒に近江屋を出て難をのがれます。
二人が出てゆくとすぐまた階下に来客の気配。
当時龍馬の身の回りの世話をしていたのは、少し前まで雲井龍という四股名で相撲を取っていた「藤吉」という青年でした。彼が爪楊枝を削る手を止め、階下に降りてゆくと「拙者、十津川の者ですが、才谷先生(龍馬は当時、才谷屋梅太郎の変名を使っていた)はご在宅でしょうか?」と身なりのいい武士が名刺を手渡す。
ほんの一瞬だけ躊躇したものの、藤吉はクルリと振り向き、二階の階段を昇りかける・・・。
龍馬の存在を確認した男は後ろから・・音も無く近付き、藤吉の大きな背中を力任せに袈裟切りに。「ドス~ン」
藤吉の巨体が階段を落ちる音に、「ホタエなや」と龍馬が二階の奥から声をかける。
龍馬は藤吉が何かでふざけていると思ったらしい。
刺客はその声の方角から龍馬らは二階の一番奥の間だと知る。
先頭の一人が「坂本先生、お久しぶりです」と声を掛けると、「オマシャは誰じゃったか?」と顔を上げる龍馬。
これで二人の内どちらが龍馬かを悟った刺客は、飛び込みざま、抜き打ちで龍馬の額を切りつける。
深手を負いながらも龍馬は背後に置いた拝刀「陸奥の守吉行」を取ろうと身をひねるが、そこへ「こなくそっ!」の声とともに二の太刀が襲ってくる。
襲撃はほんの数分の出来事だったようだ。
刺客が引き上げた後、司馬遼太郎さんの名作「龍馬が往く」では龍馬は中岡に「石川君大丈夫か?」と聞いたとありますが・・・
事件後すぐに現場に駆けつけた近江屋の主・新助は「龍馬さんの喉にはトドメの刺し傷があった」と証言しています。
いずれにしてもあたり一面は血の海。
現場には襲撃者が残していった刀の鞘が一つ。


新撰組十番隊・隊長 原田佐之助は伊予・松山出身。

母屋の入り口には高下駄が何故か片方だけ残されておりました。
鞘は、その後間もなく新撰組の隊士「原田佐之助」のものと判明、下駄も新撰組の行き着けの料亭「瓢亭」のものと判明します。



今も営業の続く三寧坂の瓢亭

こで少しだけ余談ですが・・・
京都三年坂の料亭「瓢亭」は、現在も立派に営業が続いていて、先程発売された(世紀の愚本)「ミシュランガイド京都・大阪編」2009では見事3つ星を獲得しているそうです。

龍馬はほぼ即死、中岡は全身に11ケ所の刀傷を受けながらも息があり、翌16日には「焼飯が食べたい!」と言うまでに回復するのですが、17日に容態が急変、その日の内に息を引き取ってしまいます。


中岡慎太郎が最後に食べたとされる焼飯。
これが日本史に登場する最初のチャーハンか?
職業柄、こういうモノに妙に食いついてしまうチャーリー。


死の床にあって中岡は、襲撃の様子を詳しく語っており、それはそのまま記録として後世に残ることとなりました。
刺客が二人を切りつける時「コナくそっ!」という掛け声を発したという重要な手掛かりも、中岡の証言によって明らかになりました。

息を引取るまで暗殺についてアレコレ語った中岡、
1867年11月17日絶命。


中岡は襲撃者を評して「敵ながら中々肝の据わった男達だった」とも語っています。
中岡が受けた11ケ所の刀傷の内、一番の深手は腰への一太刀。
「現代の医学ならば、中岡の方は死ななかっただろう」と言われています。

色々な記録や、証言を付き合わせると、まあざっとこんな風に暗殺が行われただろうということが判っておりますが・・・・
それでは一体だれがこの暗殺を計画し、実行したのか?
先ず第一に考えられたのは、モチロン!新撰組であります。
一般的に考えられる立場(佐幕派)や、その探索・実行能力に加え、下駄と鞘という動かぬ物的証拠まであるのですから。
しかし現在、教科書も含め、新撰組説が何処にも書かれず、誰も言わないのは何故でしょう?
それは後日、新撰組には「ほぼ完璧なアリバイがある」ことが判明したからなのです。
11月15日の夜、まさに龍馬が襲われたその時間、新撰組は隊を抜け出し、別派(御稜衛士=高台寺派)を作ろうとしていた「伊東甲子太郎一を襲う打ち合わせをしている時間でした。

当時、新撰組は壬生ではなく、第二屯所と呼ばれた西本願寺
を活動の拠点にしていた。
京都駅に近い油の小路は第二屯所からほんの200mほど。

それは、中岡が絶命した翌日18日、「油の小路の変」して実行されました。
アレッ?では、新撰組の犯行を示唆する二つの遺留品は何だったの?
そう・・・ソレなんですが、こうなってしまうと、それは当然「偽装工作」ということになります。
この偽装工作が故にミステリーが生まれた、といわれていますが・・・
逆の見方をすれば、それ故に明らかになったこともあると私は考えます。
あの「偽装工作」が成功し、事件が新撰組の仕業ということで処理されていれば問題はなかった。
しかし新撰組にアリバイが判明したことにより窮地に陥った暗殺者サイドは、新撰組の代わりとして…偽装工作とは正反対だが…当時新撰組と似たような立場だった見回り組を犯人に仕立てようとしたのではないでしょうか。
組織だった判断と行動で見回り組というニセの自供者を仕立て、世間をある程度は納得させ、強引に「幕府側」の犯行として処理出来る…あるいは…その必要があったのは…新政府側だけです。

もしも真犯人が見廻組ならわざわざライバル(新撰組)に手柄を譲り渡す偽装品工作などする筈がありません。幕末・維新の歴史に新撰組は度々登場しますが、見回り組は龍馬暗殺以外コレと言った活躍はありません。見回り組
にはそれほどの実力はなかったし、それ以前に、物的証拠の段階から見回り組説は破綻しています。
にもかかわらず、
教科書や…司馬遼太郎さんの「龍馬が往く」ですら「見廻組説」が採用されているのは何故でしょう?(注)
 

(注)龍馬が往く」を3度読み返したチャーリーとしは…司馬さんは一応見廻組説で物語を書いていますが、あまり暗殺の部分には力が入っていないように思えてなりません。

実は彼には…私と同じように…真相が見えていて、なお「明治・新政府」の名誉というか、正当性のため、敢て見廻組説を採用したのだと私は思っているのですが…

龍馬の時代から150年が過ぎ、時代も明治、大正、昭和、平成と進みました。
幕末・維新の事柄がもう「生乾きの歴史」ではなく普通に「歴史上」の出来事となった今なら…ハッキリ言ってもいいと思います。
暗殺を決行したのは後に「明治新政府」を作った人達だ、と。
しかし、単にそれだけではなく、暗殺には龍馬と一緒に死んだ中岡慎太郎自身も深く関与していた、というのが私の説です。

中岡は龍馬と一緒に殺されていることや、龍馬とは同郷で、龍馬とお龍さんの仲人まで引き受けている親友であったが故に、全く疑われることがありませんでした。

しかし、一つ一つのナゾを繋いでゆけば…武力倒幕派も中岡抜きには実行は不可能だったと思うのです。
最後にもう一度「中岡関与説」を頭に入れながら当時の政治状況を見てみましょう。


暗殺のちょうど1ヶ月前の10月15日、坂本龍馬の発案による「大政奉還」が突如 実現してしまいます。

この事態に最も困ったのは「武力倒幕派」でした。なにしろ、徳川慶喜の首(みしるし)を上げ、それを晒すことこそ「日本に新しい時代がやって来た!と、世間にに知らせる唯一最良の方法だ」と武力倒幕派は考えていたからです。
大政奉還・当日は奇しくも彼らが朝廷から「倒幕の詔勅」を受け、「錦の御旗」が下された日でした。

「まさか将軍・慶喜が、大政奉還などというアイディアを受けやしないだろう」と考えていた武闘派は、「このままでは大政奉還派=龍馬 の筋書き通りに事が進んでしまう」という危機感を持ったことは容易に推測できます。

そして、そのことこそ龍馬暗殺の動機なのです。
大政奉還から暗殺当日までの1ヶ月が暗殺の準備期間だったと考えれば、周りで進行している不穏な気配を龍馬は感じ取っていたからこそ何時に無く警戒をしていたのでしょう。
大政奉還によって、龍馬は徳川慶喜の命を救った訳ですから、幕府側が龍馬を襲う理由はもうなくなっていたと言えます。(注)

(注)一つ考えておかねばならない事は、今と違って、インターネットやニュース番組のなかった当時は、それが庶民にまで浸透するのに一ケ月という時間は・・・実は微妙なトコロ。

当然、中枢にいる人間には判っておりましたが・・・。

龍馬暗殺の結果どうなったか?という点については…

大政奉還派と言っても、龍馬を除けば慶喜に上奏した土佐藩主・山内容堂と、アイデアを容堂に取り次いだだけの後藤象二郎のふたりだけ。龍馬を失った大政奉還派は、その後何も有効な手も打てず、ズルズルと武闘派に引きずられ、翌年早々には戦争が始まります。

事件後一月半で鳥羽伏見の戦いが始まり、龍馬の死を境に日本は再び武闘派の路線に戻ったということは、彼等にとって龍馬暗殺は大成功だったのです。


一方中岡は、大政奉還からの一ヶ月間、悩みに悩んだに違いない。

日本の将来を考えると「龍馬等の考えは生ぬるい」。

しかし、自分は大久保や西郷のようには割り切れない…親友龍馬を…思いつめると一途な性格の彼が出した結論は…
「有馬新七のように龍馬と一緒に死のう!」ではなかったか?(注)

(注)伏見・寺田屋で起こった薩摩藩の上意討ちで事件で、襲撃側の有馬新七が、今は討たねばならない親友を組み伏せ、「俺ごと串刺しにしてくれ!」と叫んだと言われる一件。

そう考えると、「龍馬は誕生日に殺された」という違和感(注)や、当時、アレほど警戒していた龍馬の行動を襲撃側がピンポイントで把握出来たのはナゼか?の疑問も少しだけ薄らいでゆく気がしするのです…

(注)私は龍馬の他にはイングリッド・バーグマンくらいしか「誕生日に死んだ人」を知りませんが・・


そして何より
私が「これこそ決定的だ」と注目したのは…
暗殺者が襲って来た時、「ナクソ」という方言で斬りかかってきたという中岡の供述です。
中岡は、新撰組のアリバイを知る前に絶命しているので、まさか遺留品の鞘とゲタの工作がバレるとは夢にも思っていなかった。
「コナクソ」という掛け声は、伊予・松山あたりの方言で、そして「鞘」の持ち主「原田佐の助」の出身地が伊予…松山…偽装工作の品と、中岡の証言がこれほどピタリと一致するのは、偶然と言うにはあまりにも出来すぎていると思いませんか?
もちろん、いくら何でも中岡一人で龍馬暗殺を計画実行したとは思いませんが、この謀議に中岡自身も深く関わっていたのは間違いないように……私には思えます。
また、現代人の感覚では理解しがたいと言われそうな「俺ごと串刺しにしろ!」という死に方も、あの沸き立つような時代の空気を思えば決して突飛な考えではないと…私は思うのです。

そしてもしも私の説が正しいとすれば、中岡の背後には後に明治新政府を作った西郷、大久保、岩倉等がいたことは必然です。
この一件を幕府側の犯行として幕引きをしなければ、新しく生まれたばからの明治新政府の正当性が崩れてしまいます。五稜郭の戦いを終えた今井信郎に身代わりを引き受けてもらう代わりに将来の生活を保障したのはやはり西郷だったのでしょう。
また、土佐出身の佐々木高行が見廻組の犯行と突き止めたにも関わらず、こんな重要な事実を公表せず、調書は時代が明治から大正に年号が変わってからひっそりと発見される…という裏ワザも使われます。
その他にも新政府(多分その後の政権も)は様々な操作をして懸命に秘密を守ってきたように私には思えます。
その他、まだまだはっきりさせたいことはいくつもあります。
龍馬と中岡が最後に酒を酌み交わしていた時、龍馬は中岡の必死の芝居を見破っていたのではないか?
アノ時の酒の銘柄は一体何だったのか?
油の小路で惨殺された伊東甲子太郎は龍馬襲撃の実行犯ではなかったか?などなど。
本筋の謎がある程度解けたと思う今でも、龍馬さんが生きたあの”滾(タギ)った時代”に思いを馳せる楽しさは尽きることがありません。
定説やマスコミの意見がどうであれ、「物事は自分の頭で考え、自分の心の腑に落ちる結論を
捻り出す」というのが私の人生の楽しみ方。他人に迷惑をかけない範囲で皆さんもご一緒に・・・思いっきりロマンの「屁理屈」を捏ねてみましょうよ!

龍馬暗殺とは何の関係もありませんが、海の向こうの変なテキサスおやじもこんなことを言って楽しんでいます。






チャーリーの部屋の・・・ほとんど「ル・ポミエ」とは何の関係もない文章を、最後まで読み進めてくださったアナタは、きっと龍馬好き=「私の同志」とお見受けしました。
私の説に頷いて頂ける方も「そうかナ~」と思う方も、いろいろあるとは思いますが・・・この続きは是非ル・ポミエで、ワインなど飲みながらやりましょう!

最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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