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Charlieの雑記帳

このページは「チャーリーの雑記帳」です。
日々の生活の中で、的に?腑に落ちなかったり、なぜか気になる事柄をアトランダムに書こうと思います。
その前に・・・・


2014年9月24日

チャーリーの愛車は・・・何と
日本に残った最後の一台!


初代コルサ2ドアセダン、1981年式です。

チャーリーのお料理話 
  

ハヤシライスのお話

ハヤシライスは
、西洋料理の「ハッシュドビーフがベースになった」ということは良く知られています。

名前の由来となると「ハッシュドビーフ&ライス」がいつの間にか短くなって「ハヤシ・ライス」になった・・という説は、どこかで耳にされたことがあるのではありませんか?

それに負けず劣らず有力な説は、「ハッシュドビーフ」を最初にご飯にかけた、何処かのハヤシさんの名前から・・説。

また、その「ハヤシさん説」の中にもイロイロありまして、

   丸善の創始者早矢仕有的(1837年生まれ明治341901年没)さんという説。

   上野精養軒のコックさんだった林某という説

   はたまた、「海国兵談」を著した幕末の思想家林子平の姉のという説等々・・・

だに諸説があってハッキリとはしません。

私(チャーリー)が何度「ハッシュドビーフ・ライス」を繰り返しても一向に「ハヤシライスには変わってはくれませんが、そのことはちょいと脇に置いておいて・・・・

一般に、オリジナルの「ハッシュド・ビーフ」は、ドミグラスソースを基本にした大人向きの料理。一方ハヤシライスは、トマトケチャップなどを加え、お子様にも親しみやすいお料理に変形したモノと思われています。

神戸屋のハヤシライスは、大人の味のハッシュドビーフを御飯にかける、というスタイルで、ほとんどケチャップを使っていません。

神戸屋の調理場では、ハヤシを不味くするのは「ケチャップの使い過ぎ」肝心な事は、「ひたすら丁寧にドゥミグラスソースを作ること」だと教えられます。

もちろん、どのお店にもそれぞれの流儀があり、それはそれで大切なことでありますが・・・

ハヤシライスが国内で一般に広まったのは明治30年代のこと。

明治39年には「ハヤシライスの種」という即席食品まで登場しています。
西洋料理を早い段階から「ご飯」にかけ、そのネタを瞬く間に即席食品にまで昇華してしまう先人のパワーには脱帽ですが、それでも語源は依然藪の中なのです。

改良を加え、「新しいモノを作り出す」という能力が、「誰とも言えない庶民にある」ことが我々日本国の一番の強みかもしれません。アレレ・・・ハヤシライスごときで、ちょっと大げさになっちゃったカナ?

2012年10月
2012年10月、チャーリーの甥「須賀洋介」が何代目かの「フレンチの鉄人」になり、テレビデビューしました。
但し、視聴率の関係?で早々と番組が終わってしまいました。




下の写真は大須に彼が来た時のスナップですが、この時洋介は
須賀哲夫カレーを食べ、「美味しいな~」を連発していました。
そこでチャーリーはバシッ!といってやりました。
「お爺ちゃんのカレーだぞ!当たり前だ!」と。


ピンクのセーターはチャーリーの兄、その下が須賀洋介、
洋介の右隣は須賀哲夫の嫁=チャーリーの母親「しげ子」。
その隣は兄嫁、右端は現在シェコーベを切り盛りしている
洋介の兄祐介です。

2012年5月6日
最近テレビ等で高知県の観光ポスターが取り上げら
れているのをよく目にしませんか?


コレです。
今日、このポスターに「盗作疑惑!?」という
スレッドを発見。
読んでみると、平成10年に大橋巨泉氏が
「リョウマの休日」と言った事に触発されて
「静岡県の彫刻家が平成14年に制作した
同名の作品のパクリでは?」というモノ。

実は、古くからの知り合いはご存じでしすが、
私が初めて自費で作った本のタイトルも
「龍馬の休日」でした。


これが表紙

この本の発行は結構古く、平成2年の12月。
別に、何も自慢では無いんですが・・・自慢
でした。

実は、私が「竜馬を五万円札の肖像にしよう!」
という運動をしていた平成5~6年頃、当時の橋本
大二郎高知県知事に会いに・・頻繁に高知県庁に
通て、当時、県庁の方々にも何冊かこの本をお渡
ししたことがありました。
私の考えでは・・観光課の人の頭にそのフレーズ
が残っていたのでは?と考えているのですが・・・
確信はありません。
だいたい「オヤジギャグに生きている」おっさん
なら、誰だって考え付きそうなネタですから・・ネ。
それにしても、私が64才、静岡の笑刻家さんが66才、
巨泉さんが78才・・・我等のギャグを”
おやじギャグ”と呼んでもらえるだけ有難いじゃない
ですか。
本当ならもう”おじんギャグ”ですから。
2012年4月10日

2012年4月
2012年3月の記事

神戸屋とカレーのお話

日本のカレーは、英国人が、植民地・インドの「カレー」を「curry and rice」(カリーアンドライス)として英国風にしたものを、さらに日本人が改良した料理です。
イギリス風のカレーが、日本カレーに変化してゆく過程で、外国航路の調理人の果たした役割は大きく、ウイキペディア(インターネットの百科事典)にも最初に福神漬けを添える事を考案した日本郵船のコック「瀧定定一」の記述があります。
当「カレー厨房神戸屋」の先代、須賀哲夫は、瀧定氏の後輩にあたり、昭和・初年から20年に亘って日本郵船の調理人を務めておりました。


気鋭の調理人だった頃の哲夫 哲夫が最初に乗船した太洋丸


長年務めた職場を失った哲夫は、住み慣れた神戸から故郷の愛知県に帰り、「神戸屋」と名付けた3坪のレストランを開業します。
これが現在の「神戸屋」と「シェ・コーベ」の始まりです。

一方、戦後・日本の食生活は洋風化が進み、大手食品メーカーは競って即席カレーを発売、その成功が、カレーを日本人の国民食の地位へと押し上げてゆくのですが・・・

その時、食品メーカーの手本となったのが「幾多の貴人に愛された日本郵船のカレー」で、現在ではその味が日本のカレーのスタンダード(標準)となっています。
当店のカレーが「どこか懐かしい」味がするのは・・・
須賀哲夫が昭和の初めに習得し、昭和45年からは息子のチャーリーが守り続けてきた日本郵船・直伝の味だからだと言えます。


公式には哲夫新田丸OB 数少ない父とのショット


80年前のレシピそのままの「須賀哲夫カレー」には、何も新奇な要素はありませんが、我々は、須賀哲夫から教わった「普通に美味しい味」を次世代に伝えるべく・・・今日も懸命にカレーと格闘しております。


「天皇家のお食事を作ったことがある!」が彼の自慢でしたが・・・・昭和天皇(当時は皇太子)の訪欧は、大正10年のこと、哲夫が船乗りになる以前のことですから「陛下の食事云々・・・」は、息子へのホラ話のようです。
それでも、父のアルバムには欧州歴訪された折の秩父宮様のお写真があり、その他、無線電信の発明者「マルコニー」や、戦前の巨人軍の沢村投手やスタルヒン投手の写真もありました。

後年日本郵船OB会から送られる父宛の郵便物や名簿は「新田丸OB」でした。

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